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2007年04月12日

坂の上の雲 〜広島にある正岡子規句碑

勝手にPR(笑)
2007年4月28日 松山市に坂の上の雲ミュージアムオープン。
ってことで。

司馬遼太郎著『坂の上の雲』のうち『須磨の灯』の項の冒頭数行…
 子規の従軍は、結局はこどものあそびのようなものにおわった。
 広島で待機し、四月のはじめ、御用船に乗るべく宇品港へ出かけた。
「道端の桜は七、八分咲いて、柳の緑は染めたように芽ざしている。春昼の如しと言う頃である」
と、子規は季節を描写している。
司馬遼太郎著『坂の上の雲』



の『広島で待機し』の間に生まれた句によって、広島市と呉市に正岡子規の『句碑』が生まれました。
呉港 大船や波あたゝかに鴎浮く
呉港 呉かあらぬ春の裾山灯を灯す
廣嶋比治山 鶯の口のさきなり三萬戸
行かばわれ筆の花散る処まで
正岡子規著 正岡忠三郎編集代表『子規全集 第二巻 俳句二』より『寒山落木 巻四』

この広島市と呉市にある『正岡子規の句碑』を回ってみました。

『呉港 大船や波あたゝかに鴎浮く』句碑

(『寒山落木』巻四)
子規句碑『大船や波あたたかにかもめ浮く』

この正岡子規の句碑は、『旧呉鎮守府司令長官官舎』や『東郷邸離れ』で有名な『呉市入船山記念館』の『東郷邸離れ』から呉市立美術館本館に向かって歩いていくと呉市立美術館本館に向かって右手に建っています。
と言うよりは、美術館通りの坂を入船山公園のほうへ登る途中にある、呉市立美術館本館に近い門から正面に見えると言う方が分かりやすいかも…。
子規句碑『大船や波あたたかにかもめ浮く』 『「大船や-」の句碑について』説明
ちなみに、国登録有形文化財の休憩所(笑)『東郷邸離れ』越しにこの句碑の方を眺めてみると…。
『東郷邸離れ』ごしに子規句碑方を見たけどやぶの中・・・
やぶに隠れて、見えませ〜ん(笑)
この句は、説明板にもある通り、明治二十八年の
三月九日(土) 古島一雄を送り呉の港に遊ぶ。一泊
正岡忠三郎編集代表『子規全集 第二十二巻 年譜 資料』

の時に読まれたようです。
なんだか、旅立つ友人に対して『のーんびりと大船に乗った気持ちで行ってらっしゃい!』と応援しているような優しさも感じる句だなぁ…ってことは、『子規句碑前』バス停にある子規句碑説明文から空想したセカイですが・・・(笑)
『呉港 大船や波あたゝかに鴎浮く』句碑

ちなみに呉市三条にある金比羅山公園内にもこの句が書かれた句碑があり、
呉市三条の『呉港 大船や波あたゝかに鴎浮く』句碑
その金比羅山公園よりさらに上ったところにある大歳神社には
『呉港 のどかさや 檐端の山の 麦畠』句額
と、『呉港 のどかさや 檐端の山の 麦畠』と書かれた句額が掲げられています。
『大船や波あたゝかに鴎浮く』句碑

『呉港 呉かあらぬ春の裾山灯をともす』句碑

(『寒山落木』巻四)
子規句碑『呉かあらぬ春の裾山灯をともす』

この正岡子規の句碑は、呉市営バスの最寄バス停名がズバリ
『子規句碑前』バス停
『子規句碑前』(くれ探訪ループバス『くれたん』のバス停には『子規句碑前(歴史の見える丘)』と連名されていますね。)で、石碑は『歴史の見える丘』の並びに建っています。
子規句碑『呉かあらぬ春の裾山灯をともす』 子規句碑『呉かあらぬ〜』説明
この句も、
三月九日(土) 古島一雄を送り呉の港に遊ぶ。一泊
正岡忠三郎編集代表『子規全集 第二十二巻 年譜 資料』

の時に読まれたようですが、説明文から
  • 古島一雄は軍艦松島に乗組んで従軍記者として出征したこと
  • この句の当時はまだ広島〜呉間に鉄道が開通していなかったので船を利用したこと
  • 広島の宇品港から呉港の川原石港に入港する手前にある『麗女島』付近から、正面に見える休山山麓の日暮れの情景を詠んだのではないかということ
がわかります。
その『休山山麓』に、この碑は建っています。
実は今でも観うることが出来る写実的俳句として、時を越える句だと思います。
『呉かあらぬ春の裾山灯をともす』句碑

『行かば我れ筆の花散る処まで』句碑

(『陣中日記』)
子規句碑『行かばわれ筆の花散る処まで』

この正岡子規の句碑は過去ログ『桜・・・千田廟公園』にあるとおり、広島市南区の千田廟公園に、ひっそりとあります。
子規句碑『行かば我れ筆の花散る処まで』
背景が道路を挟んで住宅街で、その道路も往来が意外と激しい道路だったりして実はなかなか写真が撮りづらいのです…。
どうやら石碑の裏に『大正…』ってなーんとなく読めるということでその頃から建っているのでしょうか。説明板などはなく、この石碑だけが建っています。
千田翁銅像の台座と子規句碑
千田翁銅像の台座越しに子規句碑を見ると…ホント千田廟社境内の隅にひっそりと建っている感が強いです。

この句は、明治28年の
四月十日(水)晴。福本日南、桜田大我、浅水南八が宇品へ送りに来る。
正岡忠三郎編集代表『子規全集 第二十二巻 年譜 資料』
という出立に際した『陣中日記』の記事中に出てきます。
四月十日 の朝晴れて心よきに疾く車に上れば日南大我南八の諸氏吾を送りて宇品に来る。道すがらの桜花桃花紅白に乱れて風流ならぬ旅路さすがに心残るふしなきにもあらねど一たび思い定めたる身のたとひ銃把る武士ならぬとも再び故国の春に逢はん事の覚束なければ
  行かば我れ筆の花散る処まで
正岡子規著 正岡忠三郎編集代表『子規全集 第十二巻 随筆二』より『陣中日記』
陸羯南たちへの再三の願いがついに叶った割に、
去年より大我を送り素川を送り乾外を送り鐵巖を送り廣島に来りて又一念を送る
正岡子規著 正岡忠三郎編集代表『子規全集 第十二巻 随筆二』より『陣中日記』
と、従軍が決まり広島に着いてからまでも従軍する友を見送っていた正岡子規にとうとう清行きの順番が回ってきて、出征する兵士たちと同じ船に乗組んで戦地に向かわんとする『武者震い』を感じる句ですね。
ちなみに、『従軍日記』にはこの句と並んでもう1句掲載されています。
  出陣や桜見ながら宇品まで
正岡子規著 正岡忠三郎編集代表『子規全集 第十二巻 随筆二』より『陣中日記』
『行かば我れ筆の花散る処まで』句碑

『廣嶋比治山 鶯の口のさきなり三萬戸』句碑

(『寒山落木』巻四)
子規句碑『鶯の口のさきなり三萬戸』

この正岡子規の句碑は、比治山公園の富士見台展望台の入口右脇に建っています。
子規句碑『鶯の口のさきなり三萬戸』
この碑はなかなか堂々と建っており、野良猫たちによって守られています(笑)説明板はないようですね。
富士見台展望台から広島市南西を見た。
正岡子規が日清戦争に従軍しようとわくわくしている頃に比治山から広島市街を眺めた時には、『鶯の口のさき』がその後1発の爆弾によって焦土地獄と化し、そして3万戸をはるかに超える大都市にまで復興を遂げるという歴史を予感できなかったことでしょう。
『鶯の口のさきなり三萬戸』句碑
posted by RainbowCity at 00:30| 広島 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 広島 その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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